「就職活動は運が全てである」

 日本の社会構造では必ずこうなってしまうのだ。日本では終身雇用制度がはびこっており所属した会社によってその人の生涯給料が決められてしまう。「本人の能力」ではなく、「所属した会社」により給料が左右されてしまう。そして、給料の程度を決める要素としては労働時間が大きく寄与しており、「給料の多い人は大変だ」というような誤った発想がこびりついている。日本でなければ、「給料の多い人は能力が高い」となるのだが、日本では単に長時間働いている人の給料が多いとなっているのだ。これも、終身雇用であり転職市場が未熟な日本ならではの発想である。
 こうした社会で労働をしていると、「個人の能力」の差異が極めて少なくなってくる。能力を高めてもどうなるものでもないので当然である。能力での差別化、アイデンティティの確立ができないため、、個人の立ち位置が曖昧になり、上司に媚びたり後輩をいじめたり、人間関係の調節で己の立ち位置を確保しようとする人が増えてくる。となると、どういった人材が求められるのかというと、「従順で真面目な人がいいよね」ということになる。で、就職活動の採用側ではそのコンセプトで「潜在能力採用?」みたいな名目の新卒採用をしているのだが、「従順で真面目な人」を演じる能力の高い人が採用されやすくなってくるのだ。これは俗にいう「コミュニケーション能力」であるが、決してビジネスコミュニケーションがうまいわけではない。あくまで表層の装いだけの力である。専門知識でも語学力でもなく、ごくごく表面的な能力なのである。就活で必要なコミュニケーション能力は「自己を偽る力」などであり、本質的な能力との相関はない。
 採用者側も数分の面接で応募者を選抜しなければいけないという縛りがあり、見極めは難しいものだとは思いつつも、それでも表面的な印象でしか人物を評価できていない。面接者本人に「個人の能力」という概念がないため当然と言えば当然である。特に、「現場社員面接」や「若手社員面接」は表面の表面しか見ることができていないため、この過程を設けること自体が無駄である。というのも、それっぽい面接の名前を付けているが、単に面接スキルのない人間が面接をしているだけの会である。さっきまで通常業務をしていた人間を面接現場に呼び出して評価シートを見せられてチェックさせられているだけである。ここでも当然であるが能力評価なんてできるわけもなく、なんとなく印象のいい人を選ぶにとどまってしまうことは容易に想像できる。
 このように「能力によらない新卒採用」であるため、日本の就活はギャンブル要素が非常に高い。無能者が無能者を評価しているわけであり、誰が選ばれるかは誰にもわからない。となると、大学生活の目標が失われるのだ。「自己研鑽をしてこの企業に就職しよう!」と定めても、その企業自体が能力を評価できないわけだから、何をして研鑽したらいいのか見えてこないのだ。「日本の大学生は遊んでいる」との指摘はあるが、こんな何したらいいのかわからない社会情勢で無目的に勉強鬱付けられる方が珍しい。やることと言えば就職塾に通って「表層の装い」を極めることであるが、本質的には何も変わってない。あくまで面接対策なだけである。ただ、当然であるが、この表層の装いを極めたところで採用者の目に留まらなかったら内定はもらえない。
 このように運だけの就職活動が蔓延しているのが日本の現状である。中身がないから「就職偏差値」というように一つの物差しで各企業を並べることができてしまうのだ。その結果、労働生産性が悪く、経済指標としての平均年収も上がらないといった結果を招いてしまった。能力の高い人をしかるべき場所に配置できていないので当然の結果と言えば当然である。「個人の能力」を評価する社会になれば就活のギャンブル性もなくなり、生産性も上がるであろう。

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